藤子不二雄ファン稲垣高広の藤子的な、余りに藤子的な

『映画ドラえもん』の歴史をたどる【第3回】

公開日:稲垣 高広

 

5作目の『のび太の魔界大冒険』あたりからだったろうか。私の中で思春期のこじらせや藤子ファンとしての熱狂がややこしく絡まって、『映画ドラえもん』に向ける感情のたぎりや愛情のほとばしりがすさまじくなっていた。その狂おしい精神が最高潮に達したのが、7作目の『のび太と鉄人兵団』(1986年)を観たときだった。

『のび太と鉄人兵団』というタイトルが発表されたとき、「のび太の」じゃなく「のび太と」なんだ!?と思ったことをよく憶えている。『映画ドラえもん』のタイトルは、徹底して「のび太の〇〇」というパターンで行くのだろうと思い込んでいた私は、助詞が「の」から「と」に変わっただけで「おや!?」と感じてしまったのだ。しだいに慣れたが、その時点では「と」という助詞が違和感として心に引っかかった。

『のび太と鉄人兵団』は、地球侵略+巨大ロボットSFを『ドラえもん』の世界観で描いた作品だ。空中のどこかから巨大ロボットのものと思われる各パーツが順々に落っこちてきて、それを組み立てていき、完成させたロボットをいよいよ操縦する……という序盤の展開でグッと心をつかまれた。
そして、侵略者である鉄人兵団の骨太な恐ろしさや、鉄人兵団に勝ち目がなくなっていく絶望感が胸にこたえた。

 


『のび太と鉄人兵団』の原作マンガを収録した「別冊コロコロコミックスペシャル」1986年4月1日号

 

敵方の少女型ロボット・リルルは、『のび太の魔界大冒険』の満月美夜子と並び、私にとって『映画ドラえもん』のゲストヒロインの双璧である。2人ともヒロインとしての輝き、存在感が抜群だった。『魔界大冒険』や『鉄人兵団』が公開されたとき私が10代の思春期にあったことも彼女らに魅了された大きな要因だろう。
地球への侵略者・鉄人兵団側のスパイだったリルルは、のび太やしずかちゃんと触れ合うなかでしだいに心持ちや価値観を変えていく。地球人を理解し、地球人狩りは悪いことだと考えるようになったのだ。と同時に、祖国メカトピアを裏切れない気持ちもまた根強いものがあった。そんな葛藤のすえ、最後は自分の存在を賭けて地球を守ろうとする。私はその姿に強く心を揺さぶられた。

いろいろな人の話を聞いていると、リルルは多様な性的嗜好を刺激するキャラクターでもあったようだ。たとえば、包帯少女、ロボ娘、メカバレ、クール無表情、ピンクヘア、百合、小人化、拘束、首絞め……。リルルから「意気地なし」とののしられたい人もいたと思う。リルルに新たな性的嗜好の扉を開かれた人は少なくなさそうだ。

 


『のび太と鉄人兵団』テーマソング「わたしが不思議」のレコード
(ジャケットに描かれたピンク色の髪の少女がリルル)

 

『のび太と鉄人兵団』では、鉄人兵団の侵略を止めるための最終的な解決として、タイムマシンで過去に戻り鉄人兵団が地球侵略を始めることになるまでの歴史を根本的なところから変える……という方法をとる。それについて藤本先生は「ただひとつ残念だったのは、解決にタイムマシンを使ったこと。ちょっとイージーでした。でも、ほかに思いつかなかったのです……。ぼく、頭ワルいね。」と反省の弁を述べている。
そんな藤本先生の反省にさからうようだが、私は『鉄人兵団』を観たとき、その解決方法にたいへんな感銘を受けた。大げさな言い方だが、一種の信仰心のような心情すら抱いた。

本作では、タイムマシンで過去にさかのぼることで鉄人兵団の祖国であるメカトピアの歴史を改変する。その歴史改変を実行するより前のシーンに、私にとって重要なポイントがある。それは、旧約聖書の人類誕生になぞらえたかのようなメカトピアの創世と、鉄人兵団が地球侵略に至るまでのメカトピアの歴史が語られることだ。
その歴史とは、こんなものだった。
メカトピア最初のロボットであるアムとイムが誕生(メカトピア建国)→ロボットが増えるにつれ社会の中で支配ロボットと被支配ロボットという階級差が発生→ロボットは皆平等という考えが広がる→革命が起きる→平等社会の到来と奴隷制の廃止→ロボット以外の奴隷を求めて鉄人兵団が地球侵略を開始……。
リルルの口からメカトピアの歴史が語り終えられたとき、しずかちゃんが発したセリフ「まるっきり人間の歴史を繰り返してるみたい」が胸に痛く刺さった。

そのように語られたメカトピアの歴史を根源からやりなおすことが、鉄人兵団の侵略を止めることになるわけだが、では、具体的にどんなことをしたのか?
メカトピア最初のロボットであるアムとイムに、他人を思いやるあたたかい心を植えつけたのである。そうすれば、メカトピアのその後の歴史が軌道修正され、鉄人兵団などという悪い考えを持ったロボットが出てくる歴史とは異なる歴史になる。つまり、鉄人兵団の地球侵略は最初からなかったことになるのだ。
当時、思春期のハシカのように人間の罪深さに悲嘆し憤っていた私の心に、「まるっきり人間の歴史を繰り返してるみたい」なメカトピアの歴史と、その歴史が生み出した問題と、問題を解決する方法とが一体となって鋭く響いた。心をえぐるように響いた。
そのうえ、映画にはなく原作マンガだけの表現になるが、アムとイムに競争本能を植えつけたことがいけなかったと、問題が生じた根本原因まで説かれたのだから、私は心の底から感服してしまった。『鉄人兵団』は当時の私のバイブルのような作品と化した。

むろん、現実にはタイムマシンはないから歴史はやりなおせない。そもそも、今の人間がいろいろと悪いことをしているから歴史を根源からやりなおそうなどというのは、フィクションだから面白いのであって、現実のこととして本気でそう思ってしまうのであれば、妄想的であり危険な考えでもあるだろう。だが、人間の歴史を根本からたどって何が問題だったのかを反省し、これから先の歴史を少しでも良いものにしていく、という視点を得られたのは大きな収穫だった。今の私は「人間は」とか「歴史は」といった大それたことをあまり考えられなくなったが、当時はそういうことを考えては狂おしい気持ちになっていた。

 


『のび太と鉄人兵団』の劇場限定グッズ

 

次の『映画ドラえもん』8作目(1987年)にまつわる私の記憶は、不安な告知から始まっている。「コロコロコミック」1986年8月号に「急告」として「大長編ドラえもん新連載延期のお知らせ」が掲載されたのだ。
この号から連載開始の予定だった映画原作マンガの連載が藤子先生急病のため延期することになった、と告げられていた。驚いたしショックだったし、何より藤本先生のお体がとても心配だった。病状がわからないのでなおさらだ。
それだけに、「コロコロコミック」同年11月号から原作マンガの連載が無事スタートしたときは胸をなでおろした。タイトルは、『のび太と竜の騎士』だった。

 


『のび太と竜の騎士』の原作マンガを収録した「映画原作完全総集版」と、映画の情報を平易にガイドする「小学館のカラーワイド」

 

『のび太と竜の騎士』の連載中には、もうひとつ不穏な事態が起こった。1986年の秋ごろ「『ドラえもん』が終わる」という噂が巷に広がったのだ。終わる……というだけでも十分に不穏な話なのに、その終わり方が滅法ひどい。のび太が交通事故で植物人間になり、記憶が回復してみると、ドラえもんとすごした日々は植物状態のとき見ていた夢の出来事だった、というのだ。
噂の広がり方はかなりのもので、小学館への問い合わせの電話が1日20件にのぼる日もあり、青山学院中等部の文化祭では『ドラえもん』の連載再開を求める署名が集められた。藤本先生の娘さんは学校でその噂を聞き、父である作者に「本当に終わるの?」と尋ねたという。この噂はいくつものメディアで取り上げられてスルーできない事態となり、「コロコロコミック」1987年1月号で噂をきっぱり否定する告知が掲載された。

そんな不安と不穏の中で原作マンガが連載された『のび太と竜の騎士』は、第1作『のび太の恐竜』以来の恐竜を題材とする作品だった。第1作では恐竜が地上の支配生物だった時代である白亜紀へ出かけたが、今度は現代の地球が舞台。地底世界に恐竜が生き残っていた、というIFの物語が紡がれたのだ。

藤本先生がカナダ自然博物館を訪れたさい恐竜人の模型を見たことが構想のヒントになっている。恐竜人とは、恐竜が絶滅せず生き残って進化していたら人間に似た形態をとりうる……という仮説で、1982年カナダの古生物学者デイル・ラッセルが唱えたものだ。その恐竜人仮説に、地底には大きな空洞が広がっておりそこで文明が築かれているという地底空洞説(地底文明説)や、恐竜絶滅の原因は隕石(作中では彗星)の衝突によるものという仮説を絡ませて物語を組み立てている。
芝山監督は藤本先生の学説好きを指摘し、それを“藤子学説”と呼んでいたが、『のび太と竜の騎士』はまさにその藤子学説が大いに発揮された作品なのである。

 


『のび太と竜の騎士』のテーマソング「友達だから」のレコード

 

『のび太と竜の騎士』のクライマックスに登場する風雲ドラえもん城は、当時の人気テレビ番組「風雲!たけし城」(TBS系)のパロディだが、今このシーンを観返すと、日本風の城の外観を持つ風雲ドラえもん城を中世ヨーロッパ風の意匠をほどこした竜の騎士たちが攻め込むという、その和vs洋の構図に目を引かれる。
終盤で描かれる天変地異のシーンは圧巻だ。劇場のスクリーンで観たときの迫力は忘れられない。彗星の落下、舞い上がる海水、火山の噴火、荒れ狂う風雨、押し寄せる大津波……。圧倒的な自然の猛威の前になすすべもない、という無力感にみまわれた。

 


『のび太と鉄人兵団』『のび太と竜の騎士』の特別割引券


『のび太と鉄人兵団』『のび太と竜の騎士』の特別前売券

 

9作目の『のび太のパラレル西遊記』(1988年)は、藤本先生のご病気で原作マンガがまったく執筆されない……という重大な出来事とともに記憶に刻み込まれている。前年に入院した藤本先生が再入院し、静養のため原作マンガの執筆が休止されたのだ。
前作の『竜の騎士』のとき原作マンガの連載開始が藤本先生ご病気のため遅れるという事態が起きたが、『パラレル西遊記』に関しては、連載開始が遅れるどころか連載そのものがまったくなかった。藤本先生は『大長編ドラえもん』だけでなく他の連載作品も1年間ほど休載することになった。

 

そのうえ、本作が公開される前の年(1987年)の末に「藤子不二雄」がコンビを解消し、年が明けて88年の1月にその報を知った私は激甚な衝撃を受けた。2人で1人の「藤子不二雄」に過大なまでの思い入れを抱き、そこに美しい幻想すら見ていた私は、世界が真っ二つに亀裂したような終末的感覚に襲われた。
藤子ファンとしてそうしたつらい出来事にみまわれた時期だったこともあって、『パラレル西遊記』を思い出すとその頃の暗澹とした気分が避けがたくつきまとってくる。

 


『のび太のパラレル西遊記』の劇場限定グッズ

 

藤本先生が原作マンガを描けなかった『のび太のパラレル西遊記』だが、「次の映画は『西遊記』の世界に……」というアイデアは藤本先生からあらかじめ出されていたという。『西遊記』といえば、『アラビアンナイト』と並び「僕のバイブルみたいなもの」と藤本先生に言わせてしまうほどの物語であり、先生は幼年向けの絵本から原文の完訳版までさまざまなバージョンで『西遊記』を渉猟していた。『ドラえもん』の原点の一つとして藤本先生が挙げている作品でもある。
そんな『西遊記』の世界を『映画ドラえもん』で大々的に繰り広げることになったのだ。

この映画は、のび太が『西遊記』の夢を見ているシーンから始まり、のび太のクラスが演じる『西遊記』の劇の稽古シーンに移行し、ついには、ゲームの中の『西遊記』の妖怪が現実の世界に入り込んできて、のび太たちが『西遊記』の世界を実際に体験するに等しい冒険が展開していくことになる。まさに『西遊記』ざんまいの映画だった。

『西遊記』ゲームのバーチャル空間から抜け出してきた妖怪たちに現実の世界が侵食され、その後の歴史までが妖怪たちによって改変されてしまった結果、のび太の暮らす日常世界も変質してしまう。その光景が私の目に焼きついて離れない。いつもと同じ風景なのにそこには無気味な雰囲気が垂れ込めていて、いつもの風景から奇妙にズレているのだ。空の色が妖しく染まり、野比家の食卓にカエルとヘビの唐揚げやトカゲのスープが平然と並び、学校へ行けば出木杉や先生たちが妖怪化していてゾッとさせられた。特に、先生が人間の姿から妖怪に変化するシーンはショッキングだった。

 


『のび太のパラレル西遊記』のプライズマスコット

 

『パラレル西遊記』の原作マンガを藤本先生がまったく描けない……ということがあったので、次の10作目がどうなるのか非常に心配だった。もちろん、それ以上に藤本先生の体調が心配でならなかった。
だから、10作目『のび太の日本誕生』(1989年)の原作マンガの連載が「コロコロコミック」1988年10月号から無事スタートしたときはホッとした。藤子不二雄コンビ解消による精神的ダメージはまだ癒えていなかったが、藤本先生の復帰は大朗報だった。
そのころ藤本先生の復帰を祝うパーティーがあったようで、藤本先生がスピーチで「もう描けないんじゃないかと思っていたのに、皆さんのおかげでまた描けるようになりました」と語ったことを後年になって知った。泣けてくるエピソードである。

 


『のび太のパラレル西遊記』と『のび太の日本誕生』の劇場限定ぬりえ

 

藤本先生は、藤子不二雄コンビ解消後1年ばかりの間「藤子不二雄Ⓕ」というペンネームを使用していたが、『のび太の日本誕生』の原作マンガ連載中に「藤子・F・不二雄」と名乗り始めた。そのため、本作は藤子・F・不二雄名義になって最初の『映画ドラえもん』となった。(本稿でも、ここから「藤子F先生」と呼ぶことにする)
『のび太の日本誕生』から、藤子F先生のお名前がこれまでの「原作」「脚本」のみならず「製作総指揮」としてもクレジットされるようになり、『映画ドラえもん』シリーズの新たなるステージがここから始まる!というムードを感じさせた。「製作総指揮」とは、藤子F先生を中心に据える意識を強化する、といった趣旨で設けられたもので、藤子F先生の映画へのかかわり方が大きく変わったわけではないようだ。

 


『のび太の日本誕生』紙帽子


映画化10周年記念チラシ

 

この映画でのび太たち一行は7万年前の日本ヘ出かける。そこが冒険の舞台になるわけだが、その舞台へとのび太たちが向かう動機が私好みだった。
のび太、ジャイアン、スネ夫、しずかちゃん、そしてドラえもんまでが、それぞれの理由で家が嫌になって家出を希望する。ところが、近所の空き地も裏山もどこもかしこも個人あるいは国の所有地で、子どもたちだけで自由にできる土地が見つからない。そこで、日本の土地がまだ誰のものでもなかった大昔へ行こう、ということになった。すなわち、みんなで7万年前の日本へ家出をしたのである。
膨大な話数にのぼる短編『ドラえもん』の中には、子どもたちだけの国、子どもたちだけの町、子どもたちだけの空間を求めてそれを実現しようとする話がいくつもある。のび太たちが7万年前ヘ出かけた動機も、まさに子どもたちだけの土地を求めてのことであり、その点が私にはいかにも『ドラえもん』らしいと感じられて琴線に触れたのだった。

7万年前の日本に到着したのび太ら一行は、担当大臣を決めて自分たちだけのパラダイス作りに取りかかる。太めの大根を割ったら中からおいしそうな料理が出てくるサプライズ食事や、のび太が生み出したかわいらしい架空動物たちなど、ワクワクするような異世界体験を味わえる。
そこは異世界なのだけれど、まぎれもなくわれわれが暮らすこの日本の大昔の姿なのだと思えるところもいいし、棲息する動物の種類や日本列島の形状など7万年前の日本の風景が現在とどれほど異なるかを目撃できるのも楽しい。

ラスボスの精霊王ギガゾンビは、漂う親玉感、インパクトのある仮面、いったい何者か?という謎などで、『映画ドラえもん』に登場する悪者たちの歴史に爪痕を残した。「ギガゾンビの逆襲」というファミコンソフトまで発売されて、さらに名を刻むことになった。
ギガゾンビの手下として動くツチダマは遮光器土偶にそっくりで、これがしゃべったり、攻撃してきたり、粉々に砕けたのに再生したりするさまが妙に怖かった。

 


第7作~10作のパンフレット


『のび太の日本誕生』『のび太とアニマル惑星』の特別割引券

 

『のび太の日本誕生』は映画ドラえもん10周年記念作品にふさわしく、この時点で最高の興行成績を残し、配収・動員数ともに藤子F先生ご存命時は記録を抜かれることがなかった。
そうやって興行的に勢いを増した『映画ドラえもん』は、11作目『のび太とアニマル惑星(プラネット)』(1990年)、12作目『のび太のドラビアンナイト』(1991年)、13作目『のび太と雲の王国』(1992年)と続いた。

『のび太とアニマル惑星』は、藤子F先生が幼少のころマンガや絵本で親しんだ“犬や猫などの動物が人間のような生活をしているお話”がベースにある。犬さんとか猫さんとかが、当たり前のように言葉を使い、当たり前のように二足歩行をし、当たり前のように家庭生活を送っている。そんな素朴でメルヘンチックなお話を『映画ドラえもん』の中で再生しようとしたのだ。

本作は、そんな牧歌的な擬人化動物たちの世界にエコロジーの考えを絡めているのが大きな特徴だ。動物たちが暮らすアニマル星では、水と空気と光を原料に食物を合成し、汚水処理装置が完璧に稼働し、高効率の太陽光発電がなされ、排気ガスを出さない地磁気のタクシーが走っている。ドラえもんに言わせれば、22世紀の地球より環境設備がすごく、しずかちゃんに言わせれば、本当のユートピアである。
のび太のママが、裏山の自然を守る運動を始めたのを機に環境問題の勉強をして、そこで得た知識をのび太に説教するシーンもある。ママの口から、森林の消失、地球の砂漠化、飢餓、炭酸ガスなどの環境問題が語られる。

そして、平和でクリーンなアニマル星を侵略しようと企てるニムゲが、地球人ではないのだけれど比喩的に描かれた地球人のような存在であり、この映画では、ニムゲの愚かさを描くことで地球人が行ないつつある環境破壊を痛烈に皮肉っているように感じられる。
科学技術を発達させたのはよいが、自然を破壊し環境を汚染したあげく核戦争を起こしたニムゲは、自分らの暮らす星を生き物が住めないような地獄星にしてしまった。そして、美しくて平和なアニマル星をうらやみ、そこを侵略して手に入れようと企てた。なんだか人間が嫌いになりそうな話だが、映画の最後の最後のところで、人間も悪いばかりではない……と語られ、エンディングのテーマソング『天までとどけ』の歌詞が人間の弱さや迷いをも包容してくれるような、人間にやさしい内容で、人間嫌いになりかけた心が救われる。
アニマル星を侵略しようとしたニムゲ軍団のリーダーの素顔を明かすのは、原作にはない映画だけの演出だ。

 


『のび太とアニマル惑星』テーマソング「天までとどけ」CD

 

エコロジーといえば、『のび太と雲の王国』もエコロジー色がかなり前面に出た作品だ。『ドラえもん』にエコロジー色がくっきり出てきたのは、5作目の『魔界大冒険』のときグリーンドラえもんキャンペーンが展開されたことが大きなきっかけだったと思う。『魔界大冒険』自体は特にエコロジーを訴える内容ではなかったが、このグリーンドラえもんキャンペーンの一環で短編『ドラえもん』において「さらばキー坊」や「ドンジャラ村のホイ」といった環境問題をテーマにした話が描かれ、『ドラえもん』とエコロジーが強く結びついていった感がある。
『雲の王国』には、そんな短編『ドラえもん』のエコロジー回に登場したキー坊やホイが再登場することもあって、『ドラえもん』が描くエコロジー・テーマの集大成のような印象を受ける。

 


『のび太と雲の王国』チラシ

 

『のび太と雲の王国』の冒険の舞台は、雲の上にある天上人の世界。天上世界は連邦制で12の州からなり、地球の空一面に散らばって普通の雲に紛れて浮かんでいるため、地上人には見つからない。石油や石炭は使わず太陽光からエネルギーを得ており、水と光と有機元素から食品を合成している。そんな高いレベルで環境にやさしい文明社会のありようは、『のび太とアニマル惑星』で描かれたアニマル星に通ずるものがある。
にもかかわらず、天上世界では空気が汚れ環境が悪化していて、他の星への移住者が続出している。それは、ほかならぬ地上人(つまりわれわれ)が空気を汚しオゾン層を破壊しているからである。地上人の環境破壊が天上世界の環境にも被害を及ぼしているのだ。そのため天上人は「ノア計画」という地上浄化計画の準備を進めており、それが実行されれば、地上の文明はすべて洗い流される。ノア計画を実行するかどうかの審判に、のび太たちもかかわっていくことになる。

そんなふうに、環境破壊を続ける地上人への警笛が強く鳴らされているのがこの『のび太と雲の王国』なのである。
ご自分が娯楽作家であることに矜持を持ち、「メッセージ映画はあまり好きじゃない」と語っていた藤子F先生だが、少なくとも『アニマル惑星』と『雲の王国』に関してはエコロジーのメッセージがずいぶん前面に出た映画となっている。当時はそれに戸惑い拒否感を抱くファンもいた、との記憶がある。
当時の私は今以上に自然保護や環境問題に関心があったから、本作のメッセージに共感したし、異世界の創世神話が語られたり、絶滅動物が何種類も出てきたりと、個人的な嗜好に合う作品だった。

 


『のび太と雲の王国』劇場限定グッズ

 

『のび太と雲の王国』の前半は、ひみつ道具をいろいろと使って雲の上に王国を建造するという、夢のようなワクワク感あふれるシーンが続く。雲の上に乗ってみたいな、雲の上で遊んでみたいな、という夢想は、私も含め多くの人が雲を眺めながら抱いたことがあるのではないか。
そのうえ本作は、昔から民話や神話などで語られてきた雲の上の世界(天国)が本当にあった!という仮想を見せてくれる。
『のび太と雲の王国』は、雲という日常的な自然現象に対してわれわれが抱きがちな願望や空想を満たしてくれる映画なのだ。

『のび太と雲の王国』については、原作マンガの連載が藤子F先生のご病気のため4回で中断し、ラスト2回分が、先生の手ではなく藤子プロのスタッフによる「完全ビジュアル版イラストストーリー」と銘打たれた形式(文章と挿絵で構成された物語)で掲載されたことも忘れがたい。『パラレル西遊記』のときご病気で原作マンガをまったく描けなかった藤子F先生。そこから復帰されてホッとしていたのだが、重い病気とずっと闘っておられるのだなあ、とショックを受け、先生の容体が心配だった。
藤子F先生が描く原作マンガの完結編は、1994年、「ドラえもんクラブ」2号で発表された。

 


『のび太のドラビアンナイト』チラシ

 

公開年がエコロジー色の強い2作品に挟まれる格好となった『のび太のドラビアンナイト』は、『アラビアンナイト』の世界を舞台とする冒険ストーリーだった。
先述のとおり、『アラビアンナイト』は『西遊記』と並んで藤子F先生がバイブルのように思っていた作品で、先生を不思議話の魅力にいざなった、藤子F作品の源流のような物語である。そんな『アラビアンナイト』の世界を『映画ドラえもん』の中でたっぷりと楽しめるなんて、もうそれだけでたまらない体験だった。

『アラビアンナイト』には実在の人物が2人いて、その実在の人物を手がかりに『アラビアンナイト』の世界へ入っていこうとするところが魅惑的だ。冒険の舞台への入り方にヒネリがあるし、現実の世界と物語の世界が地続きに感じられて気分が高揚する。
『アラビアンナイト』の世界に入ってからは比較的なシンプルな構成で冒険ストーリーが展開していく。奴隷商人に捕らえられたしずかちゃんが受ける過酷な仕打ちや、ひみつ道具を使えなくなったドラえもん一行のしんどい旅路が印象深い。
後半は、シンドバッドの不思議なコレクションが大いに楽しませてくれる。隠居生活を送っていたシンドバッドが船乗りだった頃の冒険心を取り戻して悪人との戦いに挑む胸熱な展開もいい。

 


『のび太と雲の王国』『のび太とブリキの迷宮』特別割引券


『のび太と雲の王国』『のび太とブリキの迷宮』特別前売券

 

14作目の『のび太とブリキの迷宮(ラビリンス)』(1993年)は、ブリキのおもちゃをモチーフとした世界が繰り広げられる。昭和の懐かしい子どもアイテムであるブリキのおもちゃが、ハイテクノロジーで動いている世界。それは一瞬、かわいらしくノスタルジックでメルヘンチックな世界に見えるのだが、それだけでは済まされなさそうな只ならぬ雰囲気が序盤から漂っている。

本作の冒険の舞台・チャモチャ星では、人間が楽をするためブリキの人形(=ロボット)に頼りきって、農業・工業ばかりか役所、警察、軍隊までロボットに任せてしまった。おかげで、人間が働かなくてよい社会、ぜんぶロボットがやってくれる社会が実現したものの、そのため人間は体が弱り、発明家ロボットとして造られたナポギストラー博士の反乱によってロボットが人間を支配する世界になってしまった。人間たちは収容所送りだ。
物語のはじめのほうで、ひみつ道具に頼ってばかりののび太にドラえもんが、自分では何もできないダメ人間になるぞと説教するくだりがあるが、チャモチャ星では、便利な道具に頼りきってしまったがゆえの末路が全国民レベルですでに到来していたのだった。

『のび太とブリキの迷宮』は、そんな文明批判的なハードな要素と、ブリキのおもちゃ、ぬいぐるみ、サンタクロースといった童心をくすぐるイノセントな要素の両面を持った、ハラハラとワクワクがいっぱいの映画だった。

 


第11作~14作のパンフレット

 

《第4回に続く》

藤子不二雄ファン稲垣高広の藤子的な、余りに藤子的な
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