振り向けば…聖子 再び松田聖子に魅せられて|ボッサクバーナ
(たいむましんアイドル担当Tより皆さまへ)
何年か前のある日、私は動画サイトで当時の松田聖子のステージを何気なく見た。その時から、私の音楽シーンが一変し、松田聖子がその中心となった。なぜだろう?当時も大ファンだったはずなのに、そしていつしか疎遠になったアイドルだったのに。
そんな復帰組の心情を、松田聖子論の第一人者、ボッサクバーナ氏が熱く代弁してくれた。氏の評論は各コミュニティサイトや個人サイトで目にされた方も多いだろう。勿論その力量は誰もがご存知の通りだ。これを読めば、あなたは追体験するだろう、そして納得するだろう、何故あらためて”聖子”なのかを。
今から掲載する氏の文章は、2010年のファン復帰当時、氏がほぼ自分自身の為に書かれた文章だ。だから今回がネット初公開となる。掲載にあたり、いくつかの修正と追加を頂いたが、基本的な部分については、今でも通用するために変更していないという。
それでは1万字を超える熱い文章を堪能されたし!(なお文中の写真及びキャプションは担当Tが追加させて頂いた)
振り向けば…聖子 再び松田聖子に魅せられて |ボッサクバーナ
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オヤジ聖子のファンの多くがそうであるように、私も“復帰組”である。つまり80年代前半に聖子に夢中になった数年間を持ち、その後、かなりの時を経て聖子病を再発させたのだ。
今でこそ、私が聖子ファンであることは周囲の人々に知られることとなったが、当時、このことは多くの人を驚かせ、戸惑わせた。というのは、私の周囲のイメージといえば、口を開けば、わけのわからぬ小難しそうなジャズを語り、いかにもマニアックな嗜好丸出しのアフリカとかブラジル音楽のCD、はてはレコードを海外通販でかき集め、J-POPへの軽蔑を隠さず、それどころか、そもそも一般的なポップスには全く興味をもっていそうにない、鼻持ちならぬ似非インテリ趣味の変な奴、と思われていたからだ。
いや、似非インテリ趣味などと言われると、ただ“思わずうつむいたぁ私でぇす”・・・いやいや、問題は聖子である。要は聖子はもちろん、アイドルとか芸能界には無縁な男と、連れ合いも含めてそう思われてきたし、もちろん聖子ファンだった過去があるとも思われていなかったのである。
では、その実態は?というと、ファンといっても、ファンクラブとか親衛隊に入る熱狂的というほどでなくて、せいぜい聖子のシングルやアルバムは必ず発売日以前に予約を入れて買い、彼女のグラビア目当てにプレイボーイや平凡パンチ、GOROだけに飽き足りず、ついには明星や平凡まで購入、『両手で聖子』、『夢であえたら』、『青色のタペストリー』といった聖子タレント本や『聖子ひとりじめ』、『やさしさ for you』、『のちの想いに』といった写真集、-うーん、よくもまあこんなマニアックな30年近く前の固有名詞がスラスラ出てくるものだな、我ながら感心するぞ-は、しっかり購入、時にはコンサートにも行き、聖子のFM放送”ひと粒の青春“を毎週、楽しみに聴く、という程度のきわめてふつーかつライトな(笑)のファンであったわけである。いや、当時、既に20歳過ぎ、ファンとしては年長組だったはずの青年としては少々、恥ずかしいところがあるのも事実であるな。
(当時発売された書籍の数々・・・)
ところが、ある時期から私の聖子への関心は急速に冷め始め、もはや彼女のレコードを買い求めたり、聴いたりすることもなくなった。同時に周囲に聖子ファンとしての僕を知る人もいなくなった。もちろん、このことを隠していたつもりはない。私はどこかの国の政治屋連中のように自らのしたことを歪曲したり、意図的に隠したりはしないのだ。
そうではないのだが…実は、私、本人が自分がファンであったことを含め、聖子のことをほぼ完全に忘れていたのである。忘れている以上、聖子のことを友人たちとの間で話題にすることもない。どの程度、聖子を意識していなかったかというと・・・”瑠璃色の地球”と”あなたに逢いたくて”という二曲、どちらも私が彼女に関心を失って以降のもので、”瑠璃色…“の方は合唱曲として学校で教えられるほどの、”あなたに…”は聖子最大のヒット曲、つまり、どちらも、特に聖子のファンでない一般の人でもそれなりに知っている有名曲のはずなのだが、この二曲を、私は知らなかったのである。実際にちゃんと聴いてみると、どこかで聞き覚えのある、という程度のものではあったのだが。
あの年の夏、いつものように私好みのヘンタイ的な音を求めて、真夜中、You Tubeで音楽動画漁りをしていた時だ。何の偶然か、聖子の動画がおすすめ動画に入ってきた。特に興味を惹かれたわけでもないが、真夜中一人きりの気軽さ、ふとした気まぐれにこの動画を覗いてみたのが、その始まりだった。
それを見たとたん・・・お、驚いた、な、なんと、か、か、感動してしまったのである。一度目で衝撃を受け、二度目で、あろうことか、マジで涙を流し‐私は本当に音楽を色々とたくさん聞いているのだが、涙を流してまで感激するというのはあまり記憶にない‐その夜は、この動画を何度もリピートし続けた。容姿の可憐さ、動きの躍動感、曲の良さ、そしてその声と歌唱の素晴らしさ。せ、聖子ってこんなに良かったっけ・・・(二の句が次げず)。
この夜以降、頭の中に聖子の姿がこびり付いて離れなくなり、ほどなくして私はかつてはレコードで所有していた聖子の80年代前半に録音されたオリジナルアルバムをCDでひとつずつ買い直し、聴き始めていた。そして思ったのは…”聖子の歌って、こ、こんなにも素晴らしかったっけ・・・(二の句が次げず)”。
断言してもよいのだが、こうした感想はオヤジの30年前の若き日に対してのノスタルジア、つまりあの頃のものは良かったなあ、という懐古趣味では絶対にない。そんな過ぎ去ったものとは別に、今、この動画なりCDを見たり聴いたりしている自分にとって、絶対的に素晴らしいものだったのだ。
かくのごとく聖子の素晴らしさを声を大にして強調すればするほど、“それ,マジっすか?”という声が聞こえてきそうだ。いや,マジなのだ。一般的に、聖子といえば80年代の代表的アイドル、その後はスキャンダル女王、それを乗り越えて、今も活動を続けるかつては一時代を作った大ベテランといったところだろうが、決して歌が抜群にうまい、あるいは大歌手であると言うイメージはないと思う。まあ、最近は多少、違ってきているかもしれないが。なんといっても 聖子はアイドルというイメージが強烈であり、アイドルにとって歌は二の次で下手くそ、というが,多少の例外はあるにせよ、かつての天地真理から現在のAKB48に至る通り相場だ。
だが、はっきり、ここで断言しよう。80年代前半の松田聖子はその最大の例外なのだ。それどころか、80年代日本、現代史上の国力のピークを迎えようとしていたあの日本が作りえた最良・最大の音楽的達成であり、文化遺産でさえあるとさえ思っている。これはこの半年弱,改めて聖子をじっくりと聞き続けた上での、私の確信であり、揺るがない結論である。
私がファンであった80年代、つまり聖子の全盛時には、既によく言われたことは,聖子は曲に恵まれているということで、これは80年代に既に物心がついており、聖子の歌声から免れ得なかったほとんどの日本人-この時代,彼女の歌をテレビやラジオを通じ一日に一曲さえ聴かずにすごす、というのはほぼ不可能だったのではないのだろうか?-は容易に納得できることだろう。
作詞の松本隆のもと、ユーミン、大瀧詠一、細野晴臣、財津和夫・・・この時代に創造力のピークを迎えた一流の音楽家たちがこぞって聖子に手抜きの一切ない曲を提供していた。しかも、彼らはみな既製の産業歌謡曲とは一線を画したフレッシュな感性をもった新世代の作家たちであり、時代に対する鮮度も申し分なかった。それを編曲、演奏していたのがやはり当時一流のスタジオ・ミュージシャンたち。それまではダサく、遅れたものと思われていた歌謡曲のサウンドを一新し、大学生のこうるさい洋楽ファンまでも目をみはらせ、歌謡曲をJ-POPSと呼び直させる先駆けだったのが聖子の曲やアルバムだったはずだ。
だが、25年以上経った今、改めてこの当時の聖子の音楽を聞くと、こうした高水準の曲や演奏はもちろん、というか、実はそんなものを遥かに超えて素晴らしいのが、聖子のボーカルだということに気づく。聖子を語る時、しばしば引き合いに出されるキャンディ・ボイスと呼ばれる甘く、しかし実際にはべとつかずに清涼感が溢れ、ハスキーでありながら高音がよく伸びるため、パンチが効く独特の声の魅力。アップであろうがスローであろうが、どんなテンポでものりをけっして外さない、天賦のリズム感。80-81年ごろまでは、こうした先天的な美点を存分に生かしたダイナミックな歌唱が素晴らしい。この代表が、私たちの世代なら誰もが知っている“青い珊瑚礁”なのだが、驚くべきことは、この時代の動画を見ると、レコード、つまりそのスタジオ録音より出来の良いパフォーマンスが幾つもあるのである。
ところが81年くらいから喉を痛めたらしく、これ見よがしの声量やヴィブラードによるダイナミクスの使用は、サビの部分でしばしば聞かれる声のしゃくりあげ以外はほとんど無くなる。代わりに、あくまで自然でさりげない中に絶妙に配置されるちょっとした声色や声量の変化、ほのかなヴィブラードでより細やかな感情表現に冴えを見出し、同時にその独特の甘い声色の魅力そのものを強調するようになる。これが通常、松田聖子と言えば、多くの人が思い浮かべるあの“ぶりっ子”歌唱である。
ただ、強調しておきたいのが、聖子の録音された音源の曲それぞれにおけるこうした声の表現が、彼女やディレクターが頭の中であーでもない、こーでもないと色々と考えた結果のものでなく、おそらくは、彼女の天性の勘の良さによって、ほぼ無意識的に成し遂げられている、という点である。
例えば,82年のPineappleというアルバムの一曲目“P・R・E・S・E・N・T”を聴いて欲しい。
来生たかおのメロディーもとてもよい出来なのだが、イントロの小刻みに刻まれるパーカッションとドラムスのハイハットは、まるで思春期、初めての告白の前の心臓の高鳴りのように響き、そこに一呼吸おいて、鼓動がピークに達したことを表すかのようにズンズンとベースが絡んでくる。きらきらと輝く初夏のような音色を持つシンセの音色がさらに加わり、曲をぐいぐい盛り上げる。
これだけでも、名演が約束されたような素晴らしい出だしだ。そこに聖子の“びねつがぁある、よぉおーにっ”という歌声が入るのだが、この“微熱”の声色とヴォリュームがこれ以上なく絶妙。声を張り上げるのでもなく、かといってボサノヴァ的に淡々と歌いだすのとも違い、その微妙な中間点で、高熱でもなければ平熱でもないまさに“微熱”。心の震えが思わず自然に唇をつき破ってでてきたかのように飛び出る“び”の破裂音。そこから漏れる柑橘類の果汁のような甘酸っぱい聖子の声でつぶやかれる“ねつがぁ”のフレーズ。 “微熱”という言葉を特に好む松本隆は、この瞬間,思わず小躍りしたに違いない。最後の母音のびの余韻がほのかにセクシーだ。一瞬、間を置いて“ある、よぉおーにっ”と続くのだが、聖子は言葉と音色に強弱をリズミックに付けることでアクセントというかシンコペーションを強調するのだが、バックの“ハートの高鳴り”パーカッションと歌のリズムがシンクロすることで、ドキドキ感が聞き手の心臓にまで伝染する。このまま“ほほっが、ば・ら・色にもえ・る”と聖子は引き続きリズムのアクセントを強調しながらも囁くように歌い、そして語尾を、あの聖子独特の若干、舌足らずに聞こえる“る”の音を引き延ばすことで、聞き手を聖子の世界に誘い込む。次の瞬間、一瞬のブレスを置いて“変ねー”と息を吐き出しながら、今度はハスキーな声色を強調するのだが、この効果が素晴らしい。瞬間的かつさりげない“ため息歌唱”なのだが、これを発売当時、レコードに針を下ろして初めて聞いた男子高校生や私を含む大学生はここで、沈没だったはず。
(ご存知、Pineappleのジャケット写真より)
その後も、聖子は素晴らしくノリの良い演奏に乗って、飛ばしまくりながら、歌詞にあわせて、甘いぶりっ子ヴォイスを使ったり、素直に歌い上げたり、微妙に口調や声色を幾度も自在に変えてゆくわけだが、この調子で歌唱分析を続けるといつまでも終わらないので、この程度で端折らせて頂く。結果として、初めて男友達からプレゼントをもらった少女の嬉し、恥ずかしの気持の高まりと、そこから醸し出される純情さ、可憐さ、可愛らしさといったものが表現されるわけだが、こうして言葉にすると陳腐な決まり文句になってしまうものを、聖子の歌声は、言葉の意味を突き抜けた、もっと直接的で感覚的な心の震えとして生き生きと描き出す。実にお見事、としか言いようのない素晴らしいボーカルなのだが、聖子は、こうした細やかで微妙な表現をおそらくほぼ無意識、天然でやっている、少なくともそうとしか思えないほど、自然に行なっているのである。
このあまりの自然なさりげなさ(ただし、その効果は絶大)ゆえに、歌唱テクニックという意識というかプレッシャーを聞き手に与えず、大変皮肉なことだが、これがこの当時の聖子の歌手としての力量を過小評価させてきた。こうした聖子の歌の芯、急所とでも呼べるものを瞬時に掴んでしまう勘の冴えと、その結果としてのもぎたての天然果実のような初々しい歌は82-83年に録音された多くの曲のなかで聴くことができる。そして、それが、私がもっともこの時代の聖子を愛してやまない理由である。
幸運なことに、こうした素晴らしい歌唱がCD以外でも、テレビでのパフォーマンスとして、You Tubeやニコ動などで、音だけでなく当時の極上の姿付きで今も楽しむことができる。素晴らしいものは数多くあるが、私が選ぶベスト3は次のようになる。
まずは81年ごろ、ファンの間では”ひよこ姫”とか”銘菓ひよこ”と呼ばれる動画を見て見よう。
夜のヒットスタジオで、聖子が黄色の超ミニドレスでヒット曲”夏の扉”を歌い踊るのだが、いや、もう何とも言い表しようのない極上の可愛さ、とでも言いましょうか。イントロに合わせて軽やかにスキップを踏んで前に出ると、ちょこんとお辞儀、これだけで、私などは既にノックアウトである。
その後、腰をぴょこぴょこと振って歌いだすのだが、この一連の動きのリズム感が絶妙。よく見ると有線マイクのコードが足にからまるのをはずしたり、よけたりを何気なくやっているのだが、動きのひとつひとつがリズムに乗り切っているため、そんなアクシデントも振り付けの一部にしか見えないのである。
続いて歌がはじまると、リズムを微塵もずらさず、ステップを踏みながら、歌詞の内容に合わせて、小首をかしげたり、カメラに目線を合わせたり、はずしたり。びっちり練習を重ね、タイトに一から十まで決められた振り付けをそのままやってるという感じでは全くなく、もちろん、おおまかなものはあるのだろうが、その場ののりにあわせて即興で体が動いているとしか見えない、しかも自分でもそれが楽しくって仕方ないという表情が素晴らしい。もちろん、歌も同様、出だしの思い切り張りのある声、元気一杯の中に、一握りの切なさを時折混ぜ合わせる声の表情付け、もうファンは昇天する以外ないな。
(残念ながら”ひよこ姫”ではないが、聖子はどんな色でも似合う)
83年だったと思うが、タイトルとして借用させていただいたテレビ番組”振り向けば・・・聖子゛の中で歌われた”君だけのバラード”、原題は”I Don’t want to lose your love”という、当時少しは知られたが、今ではほとんど忘れ去られた洋楽曲のカバーだが、これは歌が素晴らしい。もちろん、聖子のためのオリジナル曲ではないが、コンサートではしばしば歌われていた。わずか2年ほどで、ぐっと成長し大人びた、ただ可憐さはそのままの風貌、そして、その気になればこんなふうにも歌えるのよ、といわんばかりの本格的バラード歌唱なのだが、これが全身全霊をふりしぼっての絶唱となった。
この曲でも実はアクシデントがあって歌詞の2番のサビにはいったところで、マイクトラブルでエコーが消えてしまっているのだが、声の伸びがすばらしく、そんなことをまるで感じさせない。83年当時も、歌がうまくなったなーと感心して見た(いや、聴いた?)ものだが、今年、25-26年ぶりに聞いて、大袈裟でなく雷に打たれたように、ショックを受け、不覚にも本当に涙をこぼしてしまった。
なお、“振り向けば・・・聖子”は聖子ひとりで、彼女のシングルヒットやアルバム収録曲を中心にフルコ-ラスで歌いまくった5週間にわたり毎週一回放映されたフジテレビでの深夜番組で、全盛期聖子の姿を捕らえたものとしてファンの間では伝説的なものだ。You Tubeで今でもその一部を見ることが可能。
(FC会報「PePe」第18号表紙。”天国のキッス”の発売告知あり。”振り向けば・・・聖子”の総集編では同曲が最後に歌われた。)
最後のものは82年12月に行なわれた、聖子にとって初の武道館ライブ”Xmas Queen”からユーミンの”恋人はサンタクロース”である。
実は私はこのライブを実際に武道館で見ていて、それだけでも思い出深いのだが、しかし、そんな個人的な事情をおいておいても、ここにおける聖子のパフォーマンスは、おそらく彼女の長い芸歴の中でも二度と到達しえたことがないような、いいやそれどころか、ビートルズやジョアン・ジルベルトといった世界的ポピュラー音楽家たちの名唱、名演に比しても遜色の無い至高の高みに達したものだったと私は考えている。曲に乗りまくって踏むステップの可憐さ、軽やかさ、そして伸びやかな歌声、サビの部分での声のパワーがすさまじく、生で聞いていたとき、声の圧力で武道館の天井が抜けてしまうのでは、と思ったものだ。曲の後半、聖子が一瞬、客席に向かっていた視線を横に、つまりカメラ方向に向けるのだが、その時の彼女は、“もうこのまま死んでしまっても構わない”と思ったに違いない、そんな喜びと充実が溢れ切った表情を浮かべている。
今年、聖子全盛期80年代の最大のライバルだった中森明菜が歌手活動を停止した。同年代の多くの芸能人も歌手としては既に足を洗ってしまっている。しかし、聖子は今でも歌いつづける。おそらく生涯、声が出なくなっても歌いつづけるだろう。その原点がこの一瞬に違いないのだ。山口百恵でさえ決して経験し得なかった、音の女神ミューズに愛でられたもののみが知る瞬間の恍惚とその後の哀しみがここに記録されている。
(「PePe」第17号裏表紙より。背景はおそらく武道館コンサートの打ち上げ風景と思われる)
1984年のある時期から、私は松田聖子をもはや聞かなくなった。正直に言えば、デビューの80年から足掛け5年にわたり(と言っても本格的にのめりこんだのは82年からだが)ファンを続けて、さすがに飽きもきていた。その上、社会人になり、長期の海外出張、それもそもそも日本の情報さえまともに入らないような辺境の地に出るようになり、聖子の情報が入りにくかったということもあるし、かの地で恋人ができると擬似恋愛的なアイドルへの思慕ということ自体が不要なものになってしまった。そして、これがもっとも大きな理由なのだが、聖子の音楽的な充実度が82-83年をピークに下り坂となり、84-85年には、それは当時の私の耳にはごまかし難く明白なものになったと思われたのだ。
今、改めて聖子の84-85年のアルバムを聴くと、実は当時感じたほど出来の悪いものではない、というか、普通に聴けば、水準を充分に越えた良質なアルバムであることがわかる。相変わらず、当時の一流で、しかも多彩な作家がしっかりした作品を提供しつづけているし、聖子のボーカルも安定した高レベルを維持している。しかし、なんといっても、それ以前のピーク時に聴かれた独特の、青く、切なく、それでいて爽やかな輝き、そして聴き手の感情よりも深い原初的な感覚自体に訴えかけるような、そんな心の震えを感じさせた聖子の声のマジックは確実に薄れてしまっている。当時の私には、本来ならささやかと言って良い、しかし埋めようのないその決定的な差が、許容しがたい質の低下、ひどく言えば”裏切り”のようにさえ思えたのだ。
その後、25年以上にわたって私は聖子に対して冷淡な無関心を続けることになった。80年代前半はまだLPやEPレコードで音楽を聞く時代で、当然、聖子もレコードで聞いていたのだが、音楽媒体の主役は80年後半には急速にCDに取って代わられてゆく。だが、私は聖子のアルバムをCDに買い換えることさえしなかった。やがて、レコードプレーヤーが壊れると、聖子の音楽を聞くこともできなくなったが、特にそれを惜しいとさえも思わなかった。もちろん、当時もその後も、世間的には聖子は依然としてスターであり、特にこの時代にはスキャンダル・ゴシップ女王として禿鷹マスコミの格好の標的にされていた。彼女の色恋沙汰には大した興味も感興もなかったが、こうした音楽とは無縁のスキャンダルが、彼女の音楽をスポイルしていくように思われ、さすがにそれだけは、ほんの少しだが残念に思ったことを覚えている。時として、ふとチャンネルをまわしたテレビ番組でたまたま聖子が歌うのを”見た”-だって”聴いて”などいなかったのだから-こともあったけれど、それは、小さな子供にとっての遊び飽きた古びたおもちゃのように、私に何の関心も呼び起こさなかった、今年の夏、あの日、ふとした拍子にきまぐれでYoutubeでかつての聖子の動画を見るまでは。
その後の聖子が生み出しつづけた音楽については、未だに大した知見を持っているわけでなく、それゆえあまり語る資格もないのだが、ただ、私が聞いた僅かな範囲の中では、あの奇跡のようだった80-83年に生み出したような密度の高い作品は見出すことはやはりできない。
ただ、”あなたに逢いたくて“のような作品を聴けば,聖子が彼女なりのやり方で真摯に音楽に取り組んできたことは、充分にわかるし、”哀しみのボート”のように年月を重ねた聖子でなくてはできない境地を見せてくれた良質の作品もある。そして、何よりも,聖子は依然として歌い続けている、かつての妖精は魔女に変貌してしまったとしても。
時として、こうした”その後の聖子”の良質な部分を聴くと、私は,あまりに長い期間,彼女と彼女の音楽を忘れ去っていたことへの後悔とも後ろめたさともつかない感情に襲われる。なぜ、彼女のこれだけ独自の素晴らしい美しさに溢れた音の世界を、自分の世界からあまりに長い間、除き去って平気でいられたのだろうか,なぜ、その後の彼女の長い苦闘の日々を、あのあまりにも底意地の悪い芸能マスコミのスキャンダル報道とそれに乗った世間の下劣で過剰なまでのパッシングに対し、少しでも同情をしてやれなかったのだろうかと。何よりも、その後の彼女が作りつづけた歌の世界に、たとえ全面的にではなく、わずかであっても、その世界を分かち合うことで、彼女と同じ夢を共有しなかったのだろうかと。それはけっして不可能なものではなかったはずなのに。
~エピローグ 2010年大晦日~
時間の国のアリス、あるいは時を駆ける(元)少女
2010年の大晦日、意を決し、遂に26年半のブランクを経て、我らが聖子ちゃんのライブに行ってくる。東京体育館は満員、二階席の端の奥までぎっしり。噂に違わず、観客は40才代の女性が多数派だが、私と同年輩程度と思われるオヤジも結構いて全体の三割ほど。隣に座ったオヤジによると、ここ一年ほどカムバック組のオヤジ連が急速に増殖中とのこと。仲間が多いってのはいいことです。
席について、午後10時も過ぎるころになると、昔、懐かしのSeiko Callも会場の方々から飛び交い始め、開演前から雰囲気は既に最高潮。そして10時半、レザー光線が走り、往年のひよこドレスを彷彿させる黄色のミニドレスで登場した聖子は、風は秋色でスタート。チェリーブロッサム、マンハッタンでブレックファスト、星空のドライブ、渚のバルコニー、赤いスイートピー、PRESENT…、ひたすら80年代の名曲で飛ばしまくり、90年代以降の曲といえば中盤、バラードコーナーの“あなたに逢いたくて”くらい。イントロの数小節だけで、どの曲かすべてわかってしまう自分が怖い。同時に、聖子よ!懐メロ歌手になっていいのか?と(嬉しいくせに)余計な老婆心を感じてしまう自分が“憎らしい~♪。
恒例のリクエストコーナーではピーチシャーベット、流星ナイト、スター、未来の花嫁の4曲。私にとって流星ナイトは82年に初めて行ったコンサートでも歌われた思い出の曲で思わずしんみり。ピアノだけの伴奏で歌われるこのコーナーの曲を聴くと、やはり基本的に歌の力はある人だな、と再認識。
最後は再び80年代のヒットメドレーで締めくくり、最後はやっぱり、フレッシュ、フレッシュの夏の扉。アンコールはスコール、そして二度目のアンコールで、やっと最近の曲が。曲名不明(苦笑)。アンコールを終え、終了時刻は午前1時40分。とにかく楽しいライブだった。
それにしても、2010年から1980年代までを自在に往き来し、元気いっぱい飛び回る聖子は、時の魔法をあやつる、さながら”時間の国のアリス”、あるいは時をかける…、さすがに少女とは言い難いが、そこにいたのはまごうことなくあの松田聖子、四半世紀以上前、やはり、ステージを駆け回り、歌い踊っていたあの少女と同一人物だった。終了までに3度ものアンコールに応え、観客を見送り続けるサービス精神は、あのカーテンが落ちきる最後の最後まで、腰を屈め、のぞき込むようにしながら腕をカーテンから突き出し、手を客先に振り続けていたあの頃と同じもの。そうか、貴方はずっとそうしていたんだ、たとえ、多くのファンが過ぎ去り、新たなファンに入れ替わったとしても。ゴメン。そして再びよろしく。聖子・・・君が好きだ(“振り向けば・・・聖子”のエンドロールより)
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そんなわけで、今年(2019年)は、聖子のプロデビュー、プレ40周年であり、私にとってはファン復帰、プレ10周年(?)となる。この(10-1)年の流れを振り返ると、聖子のブレの無さに改めて感嘆する以外にない。この9年前の、ファン復帰直後に書いた内容に訂正すべきものが、聖子についてはほぼ見当たらないのだ。
多少とも、変わったのは周囲の見方で、かつてのスキャンダル女王のイメージはやや後景に退き、近年は”元祖アイドル”、”永遠のアイドル“としての評価がより確固たるものになってきている。そして、いつのまにか世間では“歌唱力”も素晴らしい、となってきたようであり、その皮肉な評価に私は苦笑するばかりだ。
いずれにせよ、聖子は依然として歌い続け、走り続けている。そして還暦を迎えようとするオヤジならぬジジイになりかかった私は、周回遅れでよたよたと松田聖子を追いかけようとするのだが、その背中さえ容易に捕らえられない…。
♪Woo fairly girl, あなたを追いかけ
空を飛ぶけど うまく飛べない~♪
(了)
1960年生まれ。
様々な音との出会いを求めて世界を彷徨い続けていますが、ふとした拍子に立ち戻るのは、ジョアン・ジルベルトと松田聖子、そしてエリック・ドルフィーの音の世界。聖ジュネで示された方法論を応用して聖子を理解し、語り尽くすのが夢。
プロフィール写真はJose Antonio Mendezの「ESCRIBE SOLO PARA ENAMORADOS/フィーリンの真実」レコードジャケットより。
Twitter ID:@bossacoubana
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