藤子不二雄 日本を代表する漫画家紹介
藤子不二雄は、1987年にコンビ解消されるまで使用された、藤子・F・不二雄と藤子不二雄Aの合同ペンネームである。藤子・F・不二雄は本名を藤本弘、藤子不二雄Aは本名を安孫子素雄。
最初期の合同ペンネームは「手塚不二雄」、直後に手塚の足にも及ばないということで「足塚不二雄」となり、その暫く後に両名の姓から取った「藤子不二雄」となった。
■小学校~高校時代
藤子不二雄はともに富山県出身。藤本弘が在学していた高岡市立定塚国民学校に安孫子素雄が転校してきたことが最初の出会いであり、1996年に藤本弘(藤子・F・不二雄)が亡くなるまでその交友はコンビ解消後も途切れることなく続いた。
富山県で高校在学中に漫画を投稿していた藤子不二雄は、『毎日小学生新聞』に投稿した『天使の玉ちゃん』が掲載されデビュー作となった。これが地元で話題となり、特に藤本弘は職業漫画家を目指す強いきっかけとなった。
高校卒業直前、藤子不二雄は自ら執筆した原稿を手に、兵庫県宝塚市に在住していた手塚治虫の実家を尋ねる。
手塚治虫は既に若手漫画家として大成しており、特に「新宝島」は藤子不二雄が漫画家を目指すきっかけにもなった、日本戦後漫画史におけるエポックメイキングな傑作である。
手塚治虫の実家に迎えられた藤子不二雄は、手塚治虫が発表していた「来るべき世界」の原稿を見る機会を与えられ、さらに未発表として没になった原稿が数百ページ存在していることに大きな衝撃を受ける。
藤子不二雄Aが後に発表した「まんが道」では、宝塚市からの帰路に手塚治虫に見せるために持参した原稿を汽車から捨てるシーンがあるが、実際には保管されている。
■上京、トキワ荘へ
高校卒業後、藤子不二雄Aは叔父が経営していた富山新聞社に入社。藤子・F・不二雄は製菓工場に就職するが、漫画を描くためにすぐに退職してしまう。
富山新聞社に勤めていた藤子不二雄Aは仕事にも馴染んでいたが、藤子・F・不二雄の強い勧めにより退職、漫画家を目指し状況を決意する。
上京した藤子不二雄は、藤子不二雄Aの親戚の家の二畳間に間借りする。その後、手塚治虫が借りていた豊島区のトキワ荘の部屋へ入居。敷金などは手塚治虫が用立てていた。
当時のトキワ荘には手塚治虫と同時期に入居していた同じく漫画家の寺田ヒロオがおり、その後には石ノ森章太郎(石森章太郎)、赤塚不二夫、森安なおや、鈴木伸一など、後の日本漫画界、アニメ界を牽引する作家が集まることになった。
藤子不二雄 日本を代表する漫画家紹介 vol.2へ続く。
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