藤子不二雄 日本を代表する漫画家紹介 vol.2
■トキワ荘時代
手塚治虫退去後に、トキワ荘は本格的に漫画家集団の生活の場となった。短期間滞在する者や居候する者、近所から通う者などを入れると十数人の大所帯となった。
寺田ヒロオを筆頭に新漫画党が結成され、学童社の児童漫画誌「漫画少年」を中心に漫画創作集団としても台頭していく。
藤子不二雄も毎月6本の締切に追われるようになるが、富山県に一時帰省中に気が緩み、その締切の多くを落としてしまう。これによりすべての連載が終了となり、事実上の漫画家廃業へと追い込まれてしまう。
寺田ヒロオの後押しでトキワ荘へ戻った藤子不二雄であったが、一年近く仕事を干され、不遇な日々を過ごすが、合作ではなくそれぞれ独自の作品を執筆するなど漫画創作を続け、再び漫画家として歩み始めた。
■劇画ブームと藤子不二雄A
1961年には多くの漫画家が手狭となったトキワ荘を退去し、藤子不二雄も退去している。また1960年代は劇画ブームが起き、大人向けの漫画作品が脚光を浴び始めた。
藤子不二雄Aはブラックユーモアを中心とした作品を多く手がけるようになり、少年漫画としても『魔太郎がくる!!』や『ブラック商会変奇郎』などの怪奇色の強い作品を発表している。
一方の藤子・F・不二雄は児童漫画にこだわり『ウメ星デンカ』や『モジャ公』などを発表するがヒット作に恵まれなくなり、藤子不二雄Aとは対象的に低迷の時期を迎えた。
しかし1969年に発表したドラえもんが徐々に人気を高め、1974年に日テレ版アニメ「ドラえもん」の終了に合わせて一旦連載を終えるが、翌月に連載は再開され、1979年には再びテレビ朝日でアニメ化された。
■ドラえもんブームからコンビ解消へ
ドラえもんブームは藤子不二雄ブームへと繋がり、1980年代には多くの作品がアニメ化された。その中には藤子不二雄Aの忍者ハットリくんやプロゴルファー猿、笑ゥせぇるすまんなども含まれている。
藤子不二雄ブームの真っ只中の1987年、藤子不二雄はコンビ解消を発表する。病気がちであり、胃がんを患った藤子・F・不二雄が、どちらかの死後に起きるであろう著作権継承問題を未然に防ぐためとも言われているが、真相は定かではない。
藤本弘は藤子・F・不二雄、安孫子素雄は藤子不二雄Aと、それまで藤子不二雄表記であった漫画作品も、その多くがそれぞれのペンネームへと表記が変更された。
コンビを解消し、藤子・F・不二雄、藤子不二雄Aとなった二人であったが、ペンネームと仕事場こそ別れたものの、1996年に藤子・F・不二雄が亡くなるまで二人の交友は終生変わることはなかった。
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