「アニメブームの到来とその頃のこと」第3回(全4回)

山 陰生(やま かげみ)

「アニメブームの到来とその頃のこと」第1回はこちらから。

011「アニメハウス」が発行していた、東京ムービー&(新社)作品を扱った会報の創刊号。A3二つ折りの4ページ。こちらはタダで貰えたはず。

 

 実際の所、通った意味は無かったのかといえば否である。確かに身についた技術的なものはプロのレベルには至らないものだったかもしれないが、同好の士が集まるという事で情報は集まるし、大都会で友達も出来た。インターネットなど無い時代、片田舎から上京し右も左も解らぬ者にとって、その存在は大きかった。「専門学校っていうのは、良い友達を見つけに行くところだ」と思った。…これだけだと、たいして通った意味が無さそうに思われそうだが、教師陣には東映動画(現・東映アニメーション)初の長編カラーアニメ映画『白蛇伝』などを演出された藪下泰司先生が漫画論を、作画の授業では人形アニメ作家・川本喜八郎作品のエフェクトアニメや、円谷プロの『恐竜探検隊ボーンフリー』などのアニメパートを担当した秦泉寺博先生、そして、私たちからしてみれば神さまのような存在である森康二先生といった方々が教鞭にたち、直接その授業が受けられた事は大きな収穫だったと思う。森先生は私たちが東デでの一番最初の生徒だったと思う。それに刺激し合う仲間たちもいた。現在も活躍している東デのクラスメートたちもいる。同級生の中での出世頭は北爪宏幸氏だろうか。在学中も面識はなかったが、彼が卒業制作で作った『サンタ黒サンタ』という作品は、その年の卒業制作の中ではダントツに上手く、原動画を彼がひとりで描いたという噂が流れてきたほどで(卒制はチームで作っているのだが)、後に彼の特集がアニメージュで組まれたときも、記事としてその作品も掲載されていた。今でも名前をよく目にするクラスメートでは、現在制作中の宇宙戦艦ヤマトシリーズの作監をしている高木弘樹や機動戦士ガンダムUCやサンダーボルトなどでメカ作監をしている仲盛文などがいる。ひとつの仕事を続けている彼らには本当に頭が下がる。他にもがんばっている仲間たちもいる。友人の何人かには、編集者になってからもイラストを頼んだりと、後に仕事でお世話になった者たちもいる。
 時間は少々遡るが、高校生の漫研時代にも、スゴイ人材が周りにはいた。その頃、米子市の高校漫研では公会堂の小ホールを借りて合同展覧会を行っており、その流れで私たちの代が高3になった折に「西部漫研サークル」という各校の垣根を越えた集まりを作り、共に活動して同人誌を出したり「COMECON」というイベントを行ったりした。そんな仲間内には、同級生にガイナックスの赤井孝美、アニメーターの本谷利明、1学年下にはアニメや特撮など多方面で活躍する前田真宏、漫研の後輩にはその前田、樋口真嗣と共に「GONZO」を作った山口宏などがいた。山口は同じ編集プロダクションで共に働いていた時期もある。

012「日本アニメクラブ」協力のもと発行されていた「月刊アニメーション」という本。なんか結果はうやむやになってしまったが、オリジナル企画が募集され、中間発表時にキャラ部門で載せて貰えた。その上には前田真宏画伯も選出されております。鳥取県米子市(狭っ)から2名ってスゴくない?

 

他にも絵の上手い後輩たちはゴロゴロいて、ものすごく刺激を受けたものだ。だから上京してコミケなどにも参加したが、当時の米子のレベルの高さを改めて実感したりもした。学年を前後してスゴイ才能が固まっていたので、何か自分も勘違いしていたのかもしれないW。

 

「アニメブームの到来とその頃のこと」第4回(最終回)へ続く。

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山 陰生(やま かげみ)

上京後、専門学校を経てアニメーターになるも挫折。
その後、編集プロダクションに拾われ、オタク関連の書籍や雑誌の編集・ライティングを行いその後フリーに。
しかし、人生の旅も半世紀を越え、田舎にUターンして余生を過ごす日々。
昭和を愛すが別に戻りたくはない、初老に片足突っ込みかけているオヤジです。


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