「アニメブームの到来とその頃のこと」第2回(全4回)

山 陰生(やま かげみ)

「アニメブームの到来とその頃のこと」第1回はこちらから。

 

 その頃高校生になっていた私は、迷わず漫研に入部。勉強そっちのけで漫画とアニメにのめり込む生活を送る事になる。入学直後。教室に置いてあったリクルートブックでアニメーション科のある「東京デザイナー学院」を見つけ、卒業後の進路を即決した。今でこそアニメ関係の学校もたくさんあるのだと思うが、当時アニメに特化した科のある専門学校はここくらいではなかったかと思う。どうしたらアニメーターになれるかよく分からない時代でもあったので、田舎者としては藁をもつかむ思いであったw。

005当時お世話になったアニメのテクニック関係の書。当時はこれと、あと1,2冊有ったか無かったかという感じだったかなと。最近はどうなんでしょう? 「ジ・アニメズム」の奥付を見直したら、この本のコーディネーターが、編集プロダクションに入るときにお世話になった人だった。40年近くたって初めて知った縁でした。人間色々な縁で繋がっている。

 

そして入学してみるとアニメブームを反映し、同級生が600人くらい居た。前年から凄く生徒数が増えた(こっちが600人だったかも)そうで、まぁ私みたいな流行に乗ったのがゴロゴロいたわけである。しかし、2年制の学校なのだが1年過ぎる頃には生徒数は半分くらいになると言われた。その意味は入ってみるとすぐ分かった。

006これらマール社の描き方本は、初心者でもそれなりに分かり易い書が多くて重宝しました。テレコムの1次審査を通ったのも、この「動物画の描き方」のおかげといっても過言では無かったw。

 

最初の1年はどの科も共通でデッサンやらレタリングやら基礎的な授業しかなく「アニメの絵が描きたい」という欲求を満たせられない。それに毎日けっこうな量の課題が出る。だからその辺りに不満を持ち辞めていく者が多かった。また、それとは別に「東デは中退したヤツの方が良いところに入れる」というジンクスが既にその頃には囁かれていたw。つまり、在学中に自分でアニメスタジオを見つけてプロになってしまうヤツの方が見込みがあると。自分は卒業する頃、アニメージュの募集を見つけて亜細亜堂を受けて通ったのだが、入ったときに開口一番会社の人から「東デで2年掛かって学んだ事を、1ヶ月で教える」というようなことを告げられた。どうやら1期上の先輩たちの中にも卒業生がいたらしい。ここで思い出した事があった。高校卒業前に東京ムービーの子会社であるテレコム・アニメーションフィルムの2期生の試験を受けた事がある。『ルパン三世 カリオストロの城』を観て入りたいと思っていたところ募集があったからだ。運良く1次のイラスト選考を通り上京して2次を受ける事になり、地方出身者は度々では大変だということで面接も同時に行われた。その時の面接官が東京ムービーの偉い方と、宮崎駿、大塚康生両巨頭であった。

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主に話をしたのは宮崎監督だったのだが、これに落ちたらどうするのかと聞かれたので東デに行きますといったら、それまで下を向いて無言でパイプを磨いていた大塚氏がハハッと苦笑いをした。大塚氏が面接中声を発したのはその時だけだった。つまり現在の状況は解らないが、当時は業界におけるアニメ専門学校の位置づけというのは、その程度のものだったと推測出来る。そしてテレコムの試験を見事に落ちた私は東デに通うことになったw。

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010「日本アニメクラブ」の会報など。ときには複製のセル画なんていうのも送られてきた。コナンのセルが乗っかった会報に、私が投稿した作品が載っていたw。けっこう投稿マニアであちこちに似顔絵なども送っていた中・高生時代。

 

「アニメブームの到来とその頃のこと」第3回へ続く。

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山 陰生(やま かげみ)

上京後、専門学校を経てアニメーターになるも挫折。
その後、編集プロダクションに拾われ、オタク関連の書籍や雑誌の編集・ライティングを行いその後フリーに。
しかし、人生の旅も半世紀を越え、田舎にUターンして余生を過ごす日々。
昭和を愛すが別に戻りたくはない、初老に片足突っ込みかけているオヤジです。


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