漫画家アシスタント物語番外編「それでも、さがみゆき先生は怒らなかった」その1

イエス小池

                  プロローグ

1974年(昭和49年)・・・・・石油ショックに狂乱物価、若者の間に流行ったのが、オカルトに超能力。漫画では「ベルサイユのばら」や「がきデカ」が大ヒットした時代。

さがみゆき先生は京都出身の女流怪奇漫画家で、当時は34歳。私はまだ19歳の寝小便たれの漫画家志望青年。(コタツでうたた寝しながら小便漏らしてました)今は、ジョージ秋山先生の所でアシスタントをしています。(勤続39年!)

これから書かせてもらうお話は、私と怪奇漫画家さがみゆき先生とのちょっと苦い思い出話です・・・・・・・

 

単行本・表紙ss

 

 私が手伝ったさが先生の漫画単行本「人喰い屋敷」(ひばり書房刊)の見開きページです。題字と背景画は、私が描いたものです。

 

 

                   その1

1974年(昭和49年)は、私にとってそれほど遠い昔ではありません。

まだ19歳だった当時の私を思い出すと、まるで昨日の事の様に記憶が鮮やかに蘇ってくるからです・・・・・

三畳一間の傾いた様なボロ下宿。裸電球が一つだけの薄暗い部屋には、万年床になった布団の上にコタツを置いて、いつもそこで不潔な暮らしを生きていました。

コタツの上には、大きなガラスの灰皿があって、そこにはドッサリと吸い殻がテンコ盛りになっているのです・・・・・これが酷い臭いを発散しているのですが・・・・・・・一向に気にすることもなく、その埃だらけの室内で怠け暮らす私は、もはや人間の若者というよりも死にそうなアザラシといった有様です。

私は皿洗いやビル掃除などのアルバイトを転々としながら、月2~3万円の収入で暮らしていました。(当時の大卒初任給が9万円ほど)

トイレも水道も共同の、ボロ3畳間の家賃が月々6千円。食事は電熱器を使って即席ラーメンにもやしや人参などを入れて食べるといった家畜的生活。

それでも、不思議と気楽だったのは、最小限のバイトで暮らしを立てて、後は漫画家への道を歩むために時間を使う・・・・・・この生き方に自己満足していたからだと思います。

同人誌会やら、漫画制作同好会やら、漫画家志望者の集まりにはよく参加していました。そうした人間関係が契機になって、私なんぞの処へアシスタントの仕事が舞い込んで来たのです・・・・・

 「小池君、アシスタントをやってみないかい?」

当時の私の背景画レベルは、最低でしたが・・・・・・それでも雇ってくれる人がいるとは・・・・・・・期待してもいないチャンスだったので、すぐに承諾したわけです。

生まれて初めてのアシスタント・・・・・・・それが、さがみゆき先生との仕事の始まりでした。

私の様な者をよくぞ雇ってくれたものだと・・・・・・・・今にして思えば、さがみゆき先生の懐の深さがいかに深かったか・・・・・・・・それはともかく、話を続けましょう。

さが先生は、当時34歳で、私が19歳ですから・・・・・・彼女から見れば、私は子供みたいなものだったと思います。

私の描いた原稿や絵のサンプルを見ながら・・・・・・

 「わぁ~、これ、上手やぁ~ん!」

なんて、美しい京都弁なんだろう・・・・・・・と、気持ちが緩みっぱなしの私。

絵を褒めながら、紅茶を入れてくれるさが先生・・・・・・

この時・・・・・

さが先生は、目の前の変な「子供」が、ただお荷物になるだけの半端者だという事に、まだ、気付いてはいないのです・・・・・・・・

                               その2へ つづく

 

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1955年(昭和30年)生まれ、高卒。74年、19歳で最初のアシスタントさがみゆきに師事。20歳でかわぐちかいじ、22歳で村野守美、78年、23歳から現在までジョージ秋山に師事。87年「ヤングジャンプ青年漫画大賞」で準入選、同作品でデビュー。96年単行本「サイコホスピダー」出版。08年ブログ書籍「漫画家アシスタント物語」出版。

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